墨汁一滴
荘子 天地篇 第12の11-4/4 - ひろおか
2020/05/28 (Thu) 08:33:10
荘子 天地篇 第12の11-4/4
「訓読」
魯に反(かえ)りて、以て孔子に告ぐ。
孔子曰わく、彼は仮(か)りに渾沌(こんとん)氏の術を脩(おさ)むる者なり。其の一を識(し)るも其の二を知らず、其の内を治むるも其の外を治めず。
夫(か)の明白にして素に入(い)り、無為(むい)にして朴(ぼく)に復(かえ)り、性を体し神(しん)を抱きて以て世俗の間に遊ぶ者は、汝(なんじ)将(は)た固(=胡 なん)ぞ驚かんや。
且(か)つ渾沌氏の術は、予(わ)れと汝と、何ぞ以てこれを識(し)るに足らんやと。
「訳文」
魯の国に帰ってから、[子貢は]そのことを孔子にはなしたところ、孔子はこう答えた、
「その人は、渾沌(こんとん)氏の術をとりちがえて学んでいるんだよ。その一面だけがわかっていても両面を知らない。その内面[の心性のこと]はよく考えていても外面[の世間のこと]を配慮していない。
あの[内面的な]潔白さで素(きじ)のまま世界に入り、無為自然のふるまいで朴(あらき)のままの本質に復帰し、本性(うまれつき)そのものとなって精神を胸に抱きながら、世俗にたちまじって生活を楽しんでいるような人なら、お前はきっとなにも驚くことはなかったろう。
それに、渾沌氏の術などは、私にもお前にも、とても理解できることではなかろうよ。」
これまでの「天地篇 第12の11-1/4~3/4」とこの「天地篇 第12の11-4/4」とは同じ一つの話だが、前者と後者とでは筆者が異なるのではなかろうか?
前者では、機械は心を奪うものとして技術を否定しているが、後者では、心を奪われることなく使いこなせるようでなくてはならないと言っている。
筆者が異なるとしても、孔子に、「渾沌氏の術などは、私にもお前にも、とても理解できることではなかろう」と言わせていることからすると、どちらも道家なのだろう。
文中に「渾沌氏の術」とあるが、『応帝王篇 第7の7』に「渾沌」が登場する寓話がある。
追申.
いやいや驚いた。新聞を読んでいると、コラム記事にこんな言葉が載っていた。
危機を踏まえて、社会が新しい生活様式に変わるとすれば、日本の個人も企業も、それに応じて変わっていくべきだ。
これまでのやり方に固執せず、危機をチャンスととらええるべきだ。社会環境の変化に対応したビジネスの選択と集中を考えてもらいたい。
コラム記事の文中にある「新しい生活様式」とは、政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が、「緊急事態宣言」解除後に、再度感染が拡大するのを防止するためのガイドラインに名付けた「新しい生活様式」をいうのであろう。
そもそも、「生活様式」などというものは、人個人個人のものであろう。誰かの暮らし方に倣って類似の暮らし方をする者が多くなるようなことがあるとしても、国など他のものから押し付けられるようなものではないはずだ。
また、新型コロナウイルス感染症対策であれば、それは特殊な状況下におけるものであり、必ずしも人間性に叶ったものとは言えない。
専門家会議といい、コラム記事の筆者といい、一体どのような神経を持てばこれを「新しい生活様式」などと言えるのだろうか?
さて、僕たちは、「暮らし方」を根本から考えなければならない契機をいくつも経験しているはずだ。戦争・核兵器・テロ・原発事故・地球温暖化。僕たちの「暮らし方」を問うていないものはない。僕たちの、人間としての在り方を問うている。「新しい生活様式」などと呼べるものがあるとすれば、これらを克服していく中で自ずと生まれて来る。
国が報じる新型コロナウイルスの感染者の数に一喜一憂ばかりしておれば、見るべきものも見ないで、感染の収束と共に全てを忘れてしまうだろう。
「婚 約」
辻 征夫
鼻と鼻が
こんなに近くにあって
(こうなるともう
しあわせなんてものじゃないんだなあ)
きみの吐く息をわたしが吸い
わたしの吐く息をきみが
吸っていたら
わたしたち
とおからず
死んでしまうのじゃないだろうか
さわやかな五月の
窓辺で
酸素欠乏症で
墨汁一滴202005TA 荘子外篇 天地篇 第12の11-4/4 反於魯以告孔子