一筆啓上

墨汁一滴

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日がな一日たまを追いかけて
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万葉集81-83番 山辺の - しげとし

2018/10/15 (Mon) 03:03:58


   和銅五年四月、長田(ながた)ノ王(おおきみ)を伊勢ノ斎宮(いつきのみや)に遣(つか)わされた時に、山辺ノ御井で人々の謡(うと)うた歌
81:
山(やま)ノ辺(べ)の御井(みゐ)を見がてり、神風(かむかぜ)の伊勢の処女(をとめと)と相見つるかも

山の辺の御井の清水を、見物にやって来て、旁(かたがた)、[そのあたりの]伊勢の処女と逢うて、親しんだことだ。

   その際に、謡うた宴席の古歌
82:うらさぶる心さねまし。ひさかたの天(あめ)の時雨(しぐれ)のながらう、見れば

 心寂しいような気分が、一ぱいにひろがって来る。今、天から落ちる時雨が降っている。

83:
海(わた)の底(そこ)沖つ白浪立田山、いつか越えなむ。妹があたり見む

立田山を、いつ越えることが出来るだろう。そこを越えれば、いとしい人の住家の辺も、見えるところの[立田山をば]。



 82番の歌の前にある「その際に、・・・」という題詞は、本来83番の歌の後にある左注、「右の二首は、今案(いまかむが)ふるに、御井(みゐ)にして作りし所(ところ)に似(に)ず。若(も)し疑(うたが)ふらくは、当時(たうじ)に誦(うた)ひし古歌(こか)なりしか。」を、口語訳をした折口信夫が、題詞の形にしたものです。
 歌の雰囲気からすれば、81番の歌もこの酒宴の席で作られたのかもしれません。

 左注が、82番と83番の歌を作者未詳の古歌であろうと言っている理由は、82番の歌は季節が題詞と合っていませんし、83番の歌は場所が不自然だからです。
 「時雨」は、秋の末から冬の初め頃に降ったりやんだりする季節ですから、題詞にある「四月」に合いません。「立田山」は奈良の都の西方にあるから、「伊勢路」の旅の歌に詠まれるのは不自然です。



追申.
 報道によると、防衛省は、自衛隊がソマリア海賊対処活動の一次的拠点としているアフリカ東部のジブチにある施設を恒久化する方針を固めたようです。

 これは、海賊対処活動が終了しても、自衛隊がジブチに駐留することを意味します。専守防衛であったはずの自衛隊を、何故海外に駐留させるのでしょうか? 自衛隊の新しい任務とは、一体何なのでしょうか?

 憲法違反の批判の中、強引に集団的自衛権の行使を容認した安倍晋三政権の下で、国民の議論もないまま、自衛隊はどんどん変質し続けています。
 彼が言う憲法改正とは、憲法を無視して行ってきたことを憲法に追認させることなのでしょう。これが、立憲民主主義の国といえるでしょうか?

 地球の温暖化は、一定のレベルを超えてしまえば、もう、止めることはできません。民主主義とて同じことが言えるでしょう。
 後になって気付いても遅い事です。


墨汁一滴201810TA 口訳万葉集81-83番 山辺の


**6月15日は民主主義が破壊された日 「共謀罪」法を直ちに廃止することを求める**

荘子 胠篋篇 第10の1-(3/7) - ひろおか

2018/10/11 (Thu) 12:25:38

荘子 胠篋篇 第10の1-(3/7)

「訓読」
 嘗試(こころ)みにこれを論ぜん。世俗の謂(い)わゆる至知(しち)なる者、大盗の為(た)めに積まざる者あらんや。謂わゆる至聖なる者、大盗の為めに守らざる者あらんや。何を以て其の然るを知るや。
 昔者(むかし)、竜逢(りゅうほう)は斬られ、比干(ひかん)は剖(さ)かれ、萇弘(ちょうこう)は*(ひきさ)かれ、子胥(ししょ)は靡(=爛 ただ)らされる。
 故に四子の賢にして、而も身は戮(りく)より免(まぬ)れず。

 故に跖(せき)の徒、跖に問いて曰わく、盗にも亦(ま)た道あるかと。跖曰わく、何(いず)くに適(ゆ)くとして道あることなからんや。
 夫(そ)れ妄(みだ)りに室中を意(=憶 はか)りて蔵を中(あ)つるは聖なり。入(い)るに先んずるは勇なり。出(いづ)るに後(おく)るるは義なり。可否(かひ)を知るは知なり。分かつこと均(ひと)しきは仁なり。五者の備わらずして能く大盗を成す者は、天下に未(いま)だこれ有らざるなりと。
 是れに由(よ)りてこれを観れば、善人も聖人の道を得ざれば立たず、跖も聖人の道を得ざれば行われず。
 天下の善人は少なくして不善人は多ければ、則ち聖人の天下を利するや少なくして、天下を害するや多し。

「訳文」
 しばらくそのことを論じてみよう。世間では最高の知恵といわれるものには、大泥棒のために助けとならないものがあるだろうか。最高の聖人といわれているものには、大泥棒のための守護者とならないものがあるだろうか。[最高の聖人も最高の知恵も、大泥棒のために役立っている。]どうしてそのようなことが分かるか。

 むかし、関竜逢(かんりゅうほう)は[夏(か)の桀(けつ)王のために]斬り殺され、比干(ひかん)は[殷(いん)の紂(ちゅう)王のために]その心臓をひらいて殺され、萇弘(ちょうこう)は[晋(しん)の謀略にあって]体をひきさかれ、伍子胥(ごししょ)は[呉(ご)王の夫差(ふうさ)のために自殺させられ]死体を揚子江で腐爛(ふらん)させた。

 してみると、この四人のような賢者でさえ、[その賢知がかえって逆用されて、]その身を死罪から守れなかったのだ。


 そこで、大泥棒の盗跖の子分たちが、「泥棒にも守るべき道徳がありますか」と盗跖にたずねたとき、盗跖はこう答えている。

 「何をやるにも、道徳が必要でないことなどがあるものか。そもそも[まずねらいをつけて]部屋の中の見当をつけ、中のものをぴたりと当てるのは、聖の徳だ。押し入るのに先頭をきるのは、勇の徳だ。引きあげるのにしんがりになるのは、義の徳だ。頃あいの善(よ)し悪(あ)しをわきまえるのは、智の徳だ。分けまえを公平にするのは、仁の徳だ。この五つの徳を身につけないで大泥棒になれたものは、世界じゅうにあったためしはない。」

 この言葉からかんがえると、善人が聖人の道徳をわがものにしなければ[善人として]やっていけないように、盗跖も聖人の道徳を身につけなければ[盗跖として]やっていけないのである。

 この世界には、善人は少なくて善からぬ人が多いわけだから、つまりは、聖人というものは[善人を助けて]世の中を益することが少なく、[悪人を助けて]世の中を害することが多いわけだ。[聖人や知恵が大泥棒のために役立っているというのが、よくわかるだろう。]



 さて、辞書には、「道」、「徳」、「道徳」とは次のようにある。
*みち:道・路・途・径
①人や車などが往来するための処。道路。通路。
②目的地に至る途中。
③みちのり。距離。
④(転じて)人が考えたり行ったりする事柄の条理。道理。
⑤特に、儒教・仏教などの特定の教義。
⑥道理をわきまえること。分別。
⑦てだて、手法。手段。
⑧方面・分野。そのむき。
⑨足場。踏台。
*とく:徳
①道をさとった立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性。
②人を感化する人格の力。めぐみ。神仏の加護。
③(「得」と通用)利益。もうけ。富。
*どう-とく:道徳
①人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる。
②老子の説いた恬淡(てんたん)虚無の学。もっぱら道と徳とを説くからいう。
③小・中学校における指導の一領域。

 はてさて、この話の筆者は、竜逢(りゅうほう)・比干(ひかん)・萇弘(ちょうこう)・子胥(ししょ)の四人の賢者の話を盗賊一味にもしたことがあるらしい。盗賊の一味であれば、子分たちが親分の盗跖(とうせき)に問うたのは、当然のこと、泥棒に道理や分別をわきまえる必要などあるか、ということであろう。

 親分の盗跖が、儒教がいう徳という言葉を使って、聖・勇・義・智・仁の徳を身に付けなければ大泥棒になれないと答えているが、これは、泥棒の手段・手法をただ単に聖・勇・義・智・仁の言葉に当てはめたに過ぎない。
 子分たちが問うように、泥棒が人のふみ行うべき道である道徳を身に付けなどしたら、泥棒を続けて行くことなどできはしない。

 とはいえ、手段や方法が理に適ったものであれば、異なる目的のために使われるのも確かだ。善くにも悪にも使われる。だからといって、我々は、手段や方法を考え出す知恵まで捨てたりするだろうか?
 数学や物理学は他の天体の土を地球に持ち帰ることを可能にしたが、ミサイルや核弾頭で一国を滅ぼすことも可能にした。だからといって、我々は、数学や物理学を捨てたりするだろうか?

 我々は、知らないことや分からないことをそのままにしておくことができない考える生き物として生まれた。そうであれば、数学や物理学が何に使われようと、これからも発展していくことに間違いはない。

 老子も同じように、「知恵出でて大偽あり」と言うが、考える生き物である我々は、知恵が世の中を害することに使われないようにするために、その同じ知恵に頼るしかないだろう。


墨汁一滴201810TA 荘子外篇 胠篋篇 第10の1-(3/7) 嘗試論之

ヨハネ第21章1-14 - 陽子

2018/10/06 (Sat) 16:21:31


  Jesus Appears to Seven Disciples
1 After this, Jesus appeared once more to his disciple at Lake Tiberias. This is how it happened.
2 Simon Peter, Thomas (called the Twin), Nathanael (the one from Cana in Galilee), the sons of Zebedee, and two other disciples of Jesus were all together.
3 Simon Peter said to others, “I am going fishing.”
  “We will come with you,” they told him. So they went out in a boat, but all that night they did not catch a thing.
4 As the sun was rising, Jesus stood at the water’s edge, but the disciples did not know that it was Jesus.
5 Then he asked them, “Young men, haven’t you caught anything?”
  “Not a thing,” they answered.
6 He said to them, “Throw your net out on the right side of the boat, and you will catch some.” So they threw the net out and could not pull it back in, because they had caught so many fish.
7 The disciple whom Jesus loved said to Peter, “It is the Lord!” When Peter heard that it was the Lord, he wrapped his outer garment around him (for he had taken his clothes off) and jumped into the water.
8 The other disciple came to shore in the boat, pulling the net full of fish. They were not very far from land, about a hundred yards away.
9 When they stepped ashore, they saw a charcoal fire there with fish on it and some bread.
10 Then Jesus said to them, “Bring some of the fish you have just caught.”
11 Simon Peter went aboard and dragged the net all; even though there were so many, still the net did not tear.
12 Jesus said to them, “Come and eat.” None of the disciples dared ask him, “Who are you?” because they knew it was the Lord.
13 So Jesus went over, took the bread, and gave it to them; he did the same with the fish.
14 This, then, was the third time Jesus appeared to the disciples after he was raised from death.


 第1節のティベリアス湖は、第6章1-15節の『五千人に食べ物を与える』にあるように、ガリラヤ湖のことね。

 第14節に、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」とあるわね。
 一度目が第20章19-23の『イエス、弟子たちに現れる』、二度目が第20章24-29の『イエスとトマス』でしょうけれど、その前に、第20章11-18の『イエス、マグダラのマリアに現れる』で姿を現している。
 これは、マグダラのマリアに現れたのと、後の三度とは意味合いが異なるということかしら?

 どちらにも共通しているのは、イエスの姿を見ても、イエスだとは直ぐには分からない点ね。マグダラのマリアは、最初、イエスを墓の園丁だと思って話しかけているわ。

 イエスが捕まったとき、弟子たちは皆逃げてしまったでしょう。それでは、イエスの教えは後世に伝わらないわね。この福音書を書いたヨハネは、その後弟子たちどのような転機があったのかを書いておきたくて第21章を追加しているのでしょうね。


墨汁一滴201810TA イエス、七人の弟子に現れる ヨハネ第21章1-14


**12月6日は特定秘密保護法の日 民主主義を破壊する秘密法の廃止を求めます**

Re: ヨハネ第21章1-14 - しげとし

2018/10/08 (Mon) 07:12:39


 「転機」ねー。

 イエスの弟子たちは、イエスと一緒に居る時には人を助ける立場だったでしょう。それが、エルサレムを逃れて住み慣れたガリラヤに帰っても食べることにさえ苦労していた。そこにイエスが現れて、彼らを助けた。

 助けられる立場の事も知った弟子たちには、同じ言葉であっても、その言葉が持つ重さは、以前とは異なって聞こえたと思うよ。


余滴201810TA Re:ヨハネ第21章1-14

目次201809TA - 陽子

2018/10/01 (Mon) 18:56:05


荘子 馬蹄篇 第9の1-(4/4) ひろおか、しげとし、陽子(9.3)
万葉集74-75番 み吉野の しげとし(9.7)
ヨハネ第20章24-29 陽子(9.9)
荘子 胠篋(きょきょう)篇 第10の1-(1/7) ひろおか(9.14)
万葉集76-77番 しげとし(9.17)
ヨハネ第20章30-31 陽子 しげとし、ひろおか(9.18)
荘子 胠篋篇 第10の1-(2/7) ひろおか(9.24)
万葉集78-80 飛ぶ鳥の ひろおか(9.27)


201810TA 目次201809TA


**7月1日は憲法が殺された日 国家間の紛争であっても、人を殺すのは殺人。それを命じる権限は、国にもありません。**

万葉集78-80 飛ぶ鳥の - しげとし

2018/09/27 (Thu) 07:24:02


  和銅三年藤原ノ宮から寧楽(なら)ノ宮に、遷(うつ)られた時に、御乗り物を長屋ノ原にお立てになって、天皇(元明)の詠(よ)ませられた御製
78:
飛ぶ鳥のあすかの里をおきて往(い)なば、君があたりは見えずかもあらむ

住み慣れた飛鳥の里を、後にして行ってしまったら、恋しい人の住む家のあたりも、見えなくなってしまうであろう。


  藤原ノ宮から、寧楽(なら)ノ宮へ遷都せられた時の歌
79:
大君のみこと畏(かしこ)み、にぎびにし家をさかりて、隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)の川に船浮けて、我がゆく川の、川隅(くま)の八十隅(やそくま)落ちず、万度(よろづたび)かへりみしつつたまぼこの道ゆき暮らし、あおによし寧楽の都の佐保川にい行き至りて、我が寝たる衣の上ゆ、朝月夜(あさづくよ)さやかに見ゆれば、栲(たへ)のほに夜の霜降り、磐床(いはどこ)に川の氷(ひ)こほりさゆる夜をいこふことなく、通ひつつ作れる家に、千代までにいまさむ君と、われも通はむ

天皇陛下の御命令の恐れ多さに、賑うておった家を離れて、泊瀬川に船を浮けて、我々が下ってゆく、その川のいくつもある曲り角毎(ごと)に、きっと、幾度もふりかえりながらやって行くうちに、日を暮らしてしまって、寧楽の都の佐保川に著(つ)いて、寝ている著者(きもの)上をば、まるで朝のようにはっきりした月が照らしているので、気がつくと、夜の霜が真白に降っているし、川床の磐の上には、川の氷が凍っている。そういう夜でもやすむことなく、出かけて行って作った御殿に、千年までもおいでなさるあなただと信じて、自分も常に、そこに通おうと思う。


  反 歌
80:
青丹(あをに)よし寧楽(なら)の家には、万代(よろづよ)にわれも通はむ。忘ると思ふな [作者知れず]

寧楽に建てた御殿へは、いつまでも変ることなく、我々も通おうと思うている。いつまでたっても、われわれを忘れようとして下さるな。



 78番の歌の「君があたり」の「君」は、おそらく、亡くなった夫の草壁皇子や子の文武天皇を指すのでしょう。二人の山崚は藤原宮の南方にあったので、藤原京の北に位置する平城京に遷都すれば見えなくなってしまいます。

 それぞれ時代は異なりますが、額田王(ぬかたのおほきみ)は、新しい都へ旅の途中に17番,18番の歌を、志貴皇子(しきのみこ)は、新しい都に遷った後に51番の歌を作っています。

17:
味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山 あをによし 奈良(なら)の山 山のまに い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
18:
三輪山を然(しか)も隠(かく)すか雲だにも心あらなも隠さふべしや

51:
采女(うねめ)の袖(そで)吹(ふ)きかえす明日香(あすか)風(かぜ)京(みやこ)を遠(とほ)みいたづらに吹く


追申.
 そうねー、僕たちは、それを生み出す知恵を棄てるのではなく、倫理の問題として考えるね。

 でもどうだろうか、盛んに、企業コンプライアンス(企業の法令尊守)を言っていた人たちが、突然、SDGs(持続可能な開発目標)を言い始めた。口先だけのことであれば、宗旨替えなど容易いことだ。
 これらを見聞きしていれば、彼らが、知恵を棄てよと言いたくなる気持ちも分かる。

墨汁一滴201809TA 口訳万葉集78-80 飛ぶ鳥の


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