一筆啓上

墨汁一滴

150591
日がな一日たまを追いかけて
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マルコ第1章14-20 - 陽子

2018/12/07 (Fri) 12:44:16


  Jesus Calls Four Fishermen
  (Matthew 4.12-22; Luke 4.14, 15; 5.1-11)
14 After John been put in prison, Jesus went to Galilee and preached the Good News from God.
15 “The right time has come,” he said, “and the Kingdom of God is near! Turn away from your sins and believe the Good News!”

16 As Jesus walked along the shore of Lake Galilee, he saw two fishermen, Simon and his brother Andrew, catching fish with a net.
17 Jesus said to them, “Come with me, and I will teach you to catch people.”
18 At once they left their nets and went with him.
19 He went a little farther on and saw two other brothers, James and John, the sons of Zebedee. They were in their boat getting their nets ready.
20 As soon as Jesus saw them, he called them; they left their father Zebedee in the boat with the hired men and went with Jesus.



 『マタイによる福音書』を読んだ時にも感じたけれど、不思議なのは、イエスの「人間をとる漁師にしよう」という呼びかけと、シモンたちがイエスの呼びかけに直ぐについて行くことね。

 でも、シモンたちが洗礼者ヨハネの弟子だとすればどうかしら? イエスの不思議な呼びかけが意味することも解るだろうし、師である洗礼者ヨハネが捕らえられてしまった今は、彼らがイエスについて行ったとしても、そう不思議はないようにも思う。

 『ヨハネの福音書』の「最初の弟子たち(第1章35-41)」には、シモンとアンドレとヨハネは洗礼者ヨハネの弟子であったように書いてあるわ。
 イエスが十字架に磔になった後、失意の中、ガリラヤ湖で漁をしている時にイエスが現れる風景が浮かんで来るわ。


追申.
 そうねー、沖縄の問題といい審議中の入管法といい、国民の多くが怒りを感じているとはとても言えない状況ね。
 私たちは、ヘイトスピーチはいけないと言いながら、心の深いところに差別意識を持っているのでしょうね。この二つは同根のように思えるわ。


墨汁一滴201812TA 聖書拾い読み ガリラヤで伝道を始める/四人の漁師を弟子にする マルコ第1章14-20

万葉集91-92番 妹が家も - しげとし

2018/12/04 (Tue) 06:12:13


   天智天皇の御代

  天皇、鏡(かがみ)ノ女王(ひめおおきみ)に下された御製
91;
妹(いも)が家も不断(つぎて)見ましを、大和なる大島の嶺(ね)に家もあらましを

いとしい人の家をば、いつもいつも見ていたいものだが、この家が、大和の大島山にあってほしいものだ。さすれば、大和の額田の家は、目の下によく見えることであろう。

  鏡ノ女王の和(あわ)せられた歌
92;
秋山の木(こ)の下(した)がくり行く水の、我こそ益(ま)さめ。御(み)思ひよりは

秋の山の木の下陰を流れ行く水が、木の葉に埋もれて、表面には表われないように、私の心は、外(そと)から見えますまいが、あなたの御心持ちよりも、ずっと深いでありましょう。

Like the hidden stream
trickling beneath the trees
down the autumn mountainside,
so do my thoughts of you, my Lord,
increase more than yours of me.



 天皇といえば、巻一の巻頭にある歌のようにもっと強引であるように思うのですが、91番の歌の内容は、女の家を立ち去る男の歌のように素直です。題詞にあるような私的に与えた歌ではなく、宴席で、鏡王女がどの様な機知に富んだ歌を返して来るのかを楽しんで作った歌のように思えます。
 もしそうであれば、鏡王女の歌の、「下(した)がくり行く」の比喩に拍手喝采が沸いたことでしょう。


追申.
 辺野古の海の埋め立てが14日に再開することが決まったようだ。国の決めたことに地方は従わなければならないとは、自民党憲法改正草案が定めるところだが、正に、これを地で行くようなことが行われようとしている。

 これは人事だろうか? どれ程の国民が怒りを感じているだろうか? 黙って許すのであれば、いずれ形を変え、僕たちの身にも降り掛かって来る。

 政府の行為は、明らかに民主主義に反している。しかし、それを黙って許すのであれば、民主主義や現憲法を骨抜きにしているのは、僕たち国民だと言えよう。


墨汁一滴201812TA 口訳万葉集91-92番 妹が家も

目次201811TA - 陽子

2018/12/01 (Sat) 17:02:58


荘子 胠篋篇 第10の1-(5/7) ひろおか(11.6)
万葉集85-88番 君が行き しげとし、ひろおか、陽子(11.9)
マルコ第1章1-8 陽子、ひろおか(11.15)
荘子 胠篋篇 第10の1-(6/7) ひろおか(11.21)
万葉集90番 君が行き しげとし(11.23)
マルコ第1章9-13 陽子(11.26)
老子第18章 The Decline of Tao ひろおか(11.29)

201812TA 目次201811TA


**7月1日は憲法が殺された日 国家間の紛争であっても、人を殺すのは殺人。それを命じる権限は、国にもありません。**

老子第18章 The Decline of Tao - ひろおか

2018/11/30 (Fri) 00:16:13

老子第18章 The Decline of Tao

「原文」
大道廢、有仁義。智慧出、有大僞。六親不和、勇孝慈。國家昬亂、有忠臣。

「Lin Yutang 訳」
On the decline of the great Tao,
  The doctrine of "humanity" and "justice" arose.
 When knowledge and cleverness appeared,
  Great hypocrisy followed in its wake.

When the six relationships no longer lived at peace,
  There was (praise of) "kind parents" and "filial sons."

When a country fell into chaos and misrule,
  There was (praise of) "loyal ministers."


「Ellen Marie Chen 訳」
On the decline of the great Tao,
  There are humanity (jen) and righteousness (i).
 When intelligence (hui) and knowledge (chih) appear,
  There is great artificiality (wei).

When the six relations are not in harmony,
  There are filial piety (hsiao) and parental love (tz'u).

When a nation is in darkness (hun) and disorder (lüan),
  There are loyal ministers.


「訓読」
 故(ゆえ)に、大道(だいどう)廃(すた)れて、安(ここ)に仁義(じんぎ)あり。智慧(ちえ)出(い)でて、安(ここ)に大偽(たいぎ)あり。六親(りくしん)和せずして、安(ここ)に孝慈(こうじ)あり。国家昏乱(こんらん)して、安(ここ)に忠臣(ちゅうしん)あり。



 「訓読」では、「故(ゆえ)に、」と文が始まっているのは、本章の「大道」と「仁義」との関係が第17章の「太上(たいじょう)」と「其(そ)の次(つぎ)」との関係と合致し、第17、第18と章もつながっているので、参照している本の訳注者が、本章は第17章を承けているとの考えから、「故(ゆえ)に、」を補って訓読しているからです。
 無理にそう読む必要はありませんが、第17章~第19章は一連の文章として読めそうに思います。

 家族関係や国が平穏無事な時には、人はそのことについて何も考えません。それを何とか上手く行くようにしようとか正そうとか考えるのは、やはり、不具合や混乱が起きてからでしょう。

 それがたとい善意のものであったとしても、他人に強制するものであれば、強い者の意向が入ります。又たとい、公正なものであっても、自己の利益の為に利用しようとする者や形骸化させようとするものが現れます。

 「適法性の外套によって護られた不正」という言葉があります。見渡せば、幾らでも例を見つけることができます。これは、「法律」の世界でのことですが、人間が考え出したものであれば、「倫理・道徳」でも同じことがいえても何の不思議はありません。

 僕たちは、物事の良否や善悪を判断する時には、倫理や道徳に立ち帰ります。
 しかし、老子や荘子は、それでもなおもっと根源的なものがあり、それを理解していないからこそ、人の知恵は大きな虚偽しか生んでいないと言っているのでしょう。


追申.
 他人を単に手段として扱うのは奴隷として扱うのと同じだというが、「出入国管理法(入管法)改正案」の国会での審議を見ていると、政府の態度は正にこれであろう。

 『万葉集90番 君が行き』や『マルコ第1章9-13』の追申が「道徳の教科化」を心配していたが、このような政府が子どもたちに一体何を擦り込もうというのだろうか?
 同じように心配する。

墨汁一滴201811TA 老子2 老子第18章 The Decline of Tao


**9月30日は安保法の日 安保法を直ちに廃止することを求める**

マルコ第1章9-13 - 陽子

2018/11/26 (Mon) 07:29:59


  The Baptism and Temptation of Jesus
  (Matthew 3.13-4.11; Luke 3.21,22; 4.1-13)
9 Not long afterward Jesus came from Nazareth in the province of Galilee, and was baptized by John in the Jordan.
10 As soon as Jesus came up of water, he saw heaven opening and the Spirit coming down on him like a dove.
11 And a voice came from heaven, “You are my own dear Son. I am pleased with you.”
12 At once the Spirit made him go into the desert,
13 where he stayed forty days, being tempted by Satan. Wild animals were there also, but angels came and helped him.


 短いお話だけれど、どこか不思議なお話しね。クリスマスといえば、占星術の学者や馬小屋を思い浮かぶけれど、その話では、イエスは神の子として生まれているわね。でも、この話しでは、私たちと同じ人の子として生まれたイエスが、ヨハネの洗礼を受けたことによって始めて神の子になったともとれる。

 同じ場面が『マタイによる福音書』の第3章13-17(The Baptism of Jesus)にあるけれど、ここでは、ヨハネは第14節で、“I ought to be baptized by you, and yet you have come to me!”とイエスが洗礼を受けようとしているのを思いとどまらせようとしている。
 ということは、イエスは、私たちのように悔い改めることを必要としない神の子として生まれたのでしょう。では、何故悔い改める必要もないイエスがヨハネの洗礼を受けたのか?

 イエスがユダヤ人の祭司長たちに捕らえられ、十字架に磔にされて処刑されたことが、世の人を罪から救うためと言われている理由が分からなかったのだけど、その理由がここにあるのではないかしら?
 悔い改めなければならない罪を犯していないイエスがヨハネの洗礼を受けたということは、世の人の罪を自分の罪としてイエスが代わって背負ったとも言えるわね。

 人独りが犯した罪を他の者が代わることができるのかという疑問が残るとしても、話の筋としては、納得できる。そうすると、イエスを殺したのは神ということになるのかしら?
 一つ納得しようとすると、また一つ疑問が増えるわ。


追申.
 『万葉集90番 君が行き』の追申に、「道徳の教科化」について書いてあったけれど、国家によって道徳規範が国民に擦り込まれてしまえば、行き着く先には、考えることを停止した、「非国民」という言葉しかないわ。
 老子や荘子たちが言うように、何ものにも束縛されないで物事を見るには、自由が必要だわ。

 「道徳」は辞書に書いてあるように、「善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体」なのでしょうけれど、私たちは、「一般に承認されている」ものではなく、自分自身の規範を持たなければならないと思うわ。
 その中の普遍性のあるものは、他の人たちと共有されることになるのでしょうけれど、依然として私自身の規範も残る。その残ったものが、他の者ではない私ではないかしら?


墨汁一滴201811TA 聖書拾い読み イエス、洗礼を受ける/誘惑を受ける マルコ第1章9-13


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